
小児がんや先天性の心疾患などの小児病棟を訪ね、子供たちを笑顔にさせる道化師をしている林志郎さん(39)。
林さん自身も、6歳のとき、血液のがんと言われる急性リンパ性白血病を患い、3年にわたる闘病を経験しています。
林さんの闘病生活とその後のいじめなど紹介します。
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林志郎のプロフィール

1978年2月2日、福岡県北九州市で生まれ、現在も北九州市に在住。
1984年小学1年のとき、急性リンパ性白血病を発症し久留米大学病院に入院。
1987年に寛解しました。
2001年、23歳でC型肝炎となります。
幼いときの輸血が原因ではないかと医者からは言われたそうです。
2008年から小児がん経験者の支援活動を開始。
看護学校や公益財団法人がんの子どもを守る会の主催する交流会・シンポジウムなどで講演を多数。
現在、九州沖縄広域小児がんネットワーク「QOL+(クールプラス)」の代表として活動。
道化師(クラウン)でもあり、芸名「シロップ」で主に北部九州の小児がん診療病院を訪問するコメディカル・クラウンも行っています。
本職は、火災報知器の設備点検などを行う消防設備士。
2011年、患者会の活動で、3歳のとき悪性リンパ腫を経験した奥さんと結婚。

小児がん経験者同士では国内で第1号の夫婦。
現在は、2人のお子さんがいます。
急性リンパ性白血病の発症
林さんは、1984年の10月に急性リンパ性白血病になりました。
小学1年生の夏、学校から下校途中に貧血を起こして倒れ、同級生に見つけてもらったそうです。
「林くんが倒れとる」
そして、先生に見つけてもらって、病院へと運ばれます。
最初、貧血の原因がよくわからず何度も通院を繰り返したとのこと。
ようやく白血病だとわかった時、医師から言われたのが「もう少しで手遅れになるところでしたよ」。
林さんの両親は、医師から「治療に3年間の長期入院が必要になる」「抗癌剤治療の副作用等で過
酷な闘病生活になります」と聞かされ、絶望を感じたそうです。
兄からの告知
林さんは、久留米大学病院に入院します。
この頃の急性リンパ性白血病の死亡率は、6割程度と言われていたようです。
そのため、小児がんの患者たちは、ほとんど告知を受けていなかったとか。
林さんの両親も、それに習い、告知はしないと決めていました。
しかし、男4人兄弟の長兄は、「過酷な治療を乗り越えていくためには、本人がなおさら病気のことをよく理解して、これから降りかかるあらゆる困難に立ち向かわないと到底乗り越えがたい」と猛反対する両親を説き伏せます。
そして、当時19歳の長兄が、13歳下の末っ子・林さんに治療前に告知をしました。
「志郎、お前の病気は白血病とって言ってちゃんと直さないと死ぬ病気なんだ。これから3年間痛い検査や強い薬を使うけど頑張れるか」
林さんは、衝撃を受け、ただただ「死にたくない」と長兄に言うのがやっとだったそうです。
こうして、抗癌剤による3年間の治療が始まりました。
過酷な闘病生活
病棟の中は朝から晩まで泣き声や叫び声で騒々しかったそうです。
林さんは、体を点滴に繋がれて、これまで経験したことのない激痛をともなう骨髄の検査を何度もされたとのこと。
腰の骨盤、胸骨などに太くて大きい針を使って骨に穴を開け、骨の中で出来ている新しい血液の骨髄を抜き取る検査。
想像できないくらい痛いそうです。
これを何度もされ、それに合わせて抗癌剤の治療が始まると副作用で高熱や下痢、嘔吐。
食欲もどんどん減り、口や鼻から時々出血をするのですが、その血が止まらない。
髪の毛が抜け始め、毎日の変化に林さんは驚いたそうです。
同じ病の子供が亡くなっていく
時間が経って少しずつ慣れてくると、退屈な病室から出て行きたくなります。
すると、病棟の中で同じように退屈をしている子供たちと、プレイルームなどで遊ぶようになったとのこと。
林さんの入院していた久留米大学病院の病棟には、多くの小児がんの子供たちが、九州の各地からやってきていました。
その子供たちは、自分の病気のことを知らず入院していました。
ある日、いつも遊んでいた子が、突然林さんの病室に来なくなったとのこと。
そして、その子のベッドが空に。
「あの子どうしたの?」という話になると、他の子は「うちのお母さんが退院したと言っていたよ」「他の病院に移ったよ」。
林さんは母親のところに行って「あの子おらんくなったけどどうした?」と聞くと「昨日亡くなったよ」と教えてもらったそうです。
このように、病院の中では嘘と真実がゴチャゴチャ。
その中で林さんは治療していましたので、段々と不安となり、次は自分かもしれないと思ったそうです。
夜寝るのがすごく怖く感じる日も。
ですが、林さんは、3年で無事完治しました。
退院後のいじめ
髪の毛も眉毛も抜け落ちた林さんは、退院します。
しかし、復学してみると、周囲の子供だけでなくて大人たちからも小児がんへの無知から来る様々な偏見や嫌がらせを受けたそうです。
「同級生にうつるから近寄るな」と言われたり、授業で「みんな好きな人とペアになってね」となったら、みんな林さんを避けてペアになって1人残されたり。
そんないじめは、高校3年まで8年間続きます。
また、外を歩いていると、すれ違いの高校生から指さされて「お前頭ハゲとるやん」と言われて、大きな声で大笑いしながら指ささたりしたことも。
林さんは、こうした苦しい出来事を、今でも忘れることはできないそうです。
その時の周囲の冷たい視線だったり、孤独感、絶望感は想像以上だと思います。
学校の対応
林さんが体調を崩して頻繁に学校を休む事とか、学習の遅れ、体力の差で授業についていけないことで、両親は学校呼ばれたそうです。
「他の子供たちの支障になるので支援学校などに転校させてください」
そういった心無いこともあったようです。
助けようと気持ちがなかったのでしょうか。
これでは、希望をなくしてしまいますよね。
就職活動や彼女への障害
就職活動では、面接の時に素直に「白血病の経験があります」と話をすると、軒並み不採用なったそうです。
そのため、現在は自営業で仕事をしているとのこと。
また、彼女ができて病気のことを打ち明けると「重いけん受け止めきれん」とふられたりしたそうです。
仲間との出会い
なんで自分ばっかりこんな目に合うのだろうと悩んでいた林さん。
小児がんの仲間たちと出会うことがあり、それが林さんにとって大きな転機となりました。
林さんが悩みを打ち明けてみると「自分だけが悩んでいるのではないのだ」ということに気づいたそうです。
そして、後輩たちの話を聞くと、林さんが経験してきたことで悩んでいました。
林さんは、患者会の活動に積極的に参加するようになり、自分が励まされている側から次第に自分が励ます事の出来る側に変わっていっている事を感じたのこと。
すると、今まで経験してきた苦しかった経験は人の痛みを理解できる糧へと変わったそうです
そして、小児がんで苦しむ子供や、子供を亡くした親との出会いを重ねるうち、いつしか自分の宿命は使命に変えられるのではと思うようになったとのこと。
そして、毎年増え続ける小児がん経験者たちのために、2011年に「QOL+(クールプラス)」を発足します。
また、道化師(クラウン)として、病院や施設を慰問して笑いによって患者を癒すという活動もされています。
芸名は「シロップ」。
「マルコ」こと浜田歩さんの下で特訓を受けて、2010年10月17日にデビューしています。
おわりに
小児がんを患っている子供たちは、不安や孤独を感じているはずです。
経験者でしかできないアドバイスや励ましはあると思います。
そのような子供たちのために活動する林さん。
尊敬という言葉だけでは足りません。
今後もお体に気をつけて頑張っていただきたいと思います。