ケネディ暗殺者リーハーヴェイオズワルド顔画像経歴や理由目的は?ジャックルビーとは?

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アメリカ合衆国第35代大統領ジョン・F・ケネディ暗殺の実行犯とされているリー・ハーヴェイ・オズワルド。

オズワルドもまた、ジャック・ルビーに暗殺されています。

オズワルドは、なぜケネディを暗殺したのでしょうか。

また、単独の犯行だったのでしょうか。

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オズワルドとは?

オズワルドは、1939年10月18日、ニューオリンズで生まれます。

父親は、オズワルドが生まれる前に死亡。

そのため、おじのチャールズ・マレットに面倒をみてもらいます。

マレットは、アメリカで最も古い歴史を持つマフィア・ファミリーのゴッドファーザーのカルロス・マルセロの組織の人間。

マルセロは、オズワルドを暗殺するジャック・ルビーともつながりがありました。

オズワルドは、兄弟とともに母親に育てられます。

成績は平均的ですが、登校拒否の経験がありました。

また、スパイドラマが好きだったとのこと。

兄が海兵隊に入隊したころ、オズワルドは、民間の航空部隊に参加していました。

このころから、ロシアの新聞を読み始めます。

17歳で、兄同様、海兵隊に入隊し、公務としてロシア語を専門的に勉強しました。

海兵隊員時代

海兵隊時代、同僚殺害の容疑を掛けられたことがあります。

銃の不法所持と発射の罪状で、軍法会議に有罪判決を受けた経験も。

また、オズワルドは、日本にいたことがありました。

それは、1957年から1958年で、厚木基地に勤務していました。

射撃の腕前は?

海兵隊在籍中、1956年12月には、一級射手の資格に必要な得点をクリアしています。

しかし、1959年5月には、二級射手の資格に必要な得点はクリアしていますが、一級射手の資格に必要な得点はクリアしていません。

ということは、射撃の腕前が良いとは言えないということ。

そのため、ケネディ暗殺について、オズワルドの射撃で本当に命中できたのか、と疑問をもたれてもいます。

こちらが、暗殺の使用されたとされるライフル銃・イタリア製「カルカノM1938」。

日本製の4✕18倍率のスコープを装着しています。

ソ連に亡命し結婚

オズワルドは、厚木基地勤務時代にロシア語を学び、除隊後の1959年、ソ連へ旅行に出かけます。

そして、そのまま亡命。

そのとき、アメリカのスパイとして疑われたとのこと。

追放を逃れるため、自殺を試みたそうです。

その後、ミンスクでの生活を許可されます。

オズワルドは、テレビ工場で働き、ソ連人のマリーナと結婚。

また、オズワルドは、自身をマルクス主義者と主張し、駐モスクワアメリカ大使館にパスポートを返却してアメリカ市民権を放棄しようとしました。

しかし、結局は大使館員の説得を受けて、放棄しませんでした。

これについては、ソ連から国家機密を盗み出すためのCIAの工作説、その後の諜報活動のために「共産主義シンパ」を装うためものといった説があります。

また、厚木基地勤務時代に得たロッキードU2偵察機の機密情報をソ連当局に提供し、この情報が元で1960年5月1日にソビエト上空で偵察飛行を行っていた同型機が撃墜されたのではないかともいわれています。

アメリカ帰還

その後、オズワルドは、マリーナと娘を連れて1962年6月にアメリカへ帰国。

入国許可が下りるまでに6ヶ月間を要したとのこと。

軍事機密を引き渡した疑いのある人物の帰還を許可したのは、異例だったかもしれません。

オズワルドは、帰国後、ダラスのフォートワース地区に居住。

コーヒー会社で働きました。

1963年の春から夏は、おじのマレットが運営するニューオーリンズの競馬賭博事業で、掛け金徴収人をしています。

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エドウィン・ウォーカー将軍狙撃

1963年4月10日、反共産主義者のエドウィン・ウォーカー将軍を狙撃したとされています。

1963年2月、ウォーカーは「Operation Midnight Ride」と呼ばれる反共産主義の旅行で、伝道者達と協力することで、新聞の一面を飾っていました。

このころから、オズワルドは、ウォーカーを監視し始めます。

オズワルドは、ウォーカーの自宅と付近の鉄道線路の写真を撮影していました。

暗殺を計画した1963年4月10日は水曜日。

その理由は、ウォーカーの自宅付近の教会で礼拝が行われるため。

逃走の際に群衆の混雑を利用しようと考えたものでした。

そして、オズワルドは、約30メートルの場所から発砲。

銃弾は窓の木枠に当たり軌道が逸れたため、自宅の食堂で座っていたウォーカーは、破片により前腕の負傷で済み、暗殺は未遂と終わりました。

しかし、当時、捜査当局は、暗殺しようとした人物を割り出せませんでした。

オズワルドが、その人物とわかったのは、ケネディ暗殺後。

当局が、オズワルドの自宅で、数枚の写真とノートを発見します。

写真は、ウォーカー自宅周辺を撮影したもの。

メモは、マリーナが隠し持っていたものでした。

マリーナは、オズワルドがバスタブで、計画メモを燃やすのを目撃していました。

そして、オズワルドは、料理本の中に、残ったメモを隠していました。

マリーナは、オズワルドがウォーカーもしくは他の人を再び殺そうとしたとき、警察に提出しようと考え、そのメモを抜き取っていました。

また、弾丸は、後に中性子活性化試験によってケネディを暗殺した物と同じメーカーであることが判明。

そのため、オズワルドの犯行と決定づけたようです。

他に、ウォーカー狙撃の数日後、オズワルトは、ニクソンに会ってくると外出しようとしたことがあったとのこと。

マリーナは、何か暴力沙汰でも起こすのではと止めたようです。

共産国との接触

その後、オズワルドは、ニューオーリンズに移住。

フィデル・カストロの支援団体「キューバ公平委員会」に参加し、ビラ配布のときに逮捕されています。

1963年9月27日にはメキシコに行き、ソ連大使館、キューバ大使館を訪問。

オズワルドが、ソ連大使館で面会した2人の大使館員(ヴァレリー・コスチコフ、パベル・ヤスコフ)はKGBの工作員だったとされています。

その後、デイヴィッド・フェリー、ガイ・バニスターといった反カストロ派の活動家と頻繁に会うようになります。

一方で、カストロ支持者として活動するなど矛盾した行動をとっていました。

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ケネディ暗殺と逮捕

1963年11月、マリーナは、2人の子供を連れて、オズワルドと別居します。

ケネディ暗殺前夜、オズワルドは、マリーナの家に訪れ、戻ってきて欲しいと懇願。

しかし、マリーナは、それを拒否します。

すると、オズワルドは、マリーナの家に、お金と結婚指輪、マリーナの祖母のティーカップを置いていったとのこと。

マリーナは、オズワルドが帰ってから、それに気づいたようです。

これは、何を意味していたのか。

ケネディ暗殺と関係するのか。

そして、翌日、ケネディが暗殺されます。

ケネディ暗殺事件の検証のために設置された調査委員会・ウォーレン委員会は、1964年9月27日『1963年11月22日午後12時32分、遊説中のケネディをオズワルドが、テキサス州ダラスの教科書倉庫ビル5階の窓から狙撃し、暗殺した』と発表しました。

オズワルドは、事件発生直後、2階の食堂で食事をしているところを同ビルの従業員に目撃されており、また巡回中の警察官にも確認されています。

警察官が、管理人にオズワルドのことを尋ねると「ここで働いている」と回答。

建物を出たオズワルドは、J・D・ティピット巡査を職務質問中に殺害。

その後、テキサス劇場で警察官殺害容疑で逮捕されています。

しかし、オズワルドは、逮捕直後から記者団の前で「過去の亡命につけこまれた」「自分は嵌められた」「身代わり」と主張し、犯行を否定。

弁護士不在も異議を唱えています。

記者に顔の傷の事を問われると「取調べ中に警官に殴られた」と語りました。

また、ダラス警察のジェシー・カリー本部長は、拘留中のインタビューで、取調中のオズワルドの様子について「非常に横柄な態度」「犯行は全面否認しているが、彼が間違いなく犯人と信じている」とコメント。

しかし、拘留中の尋問調書などは全く残っていません。

このあたりも、疑惑を呼んでいます。

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オズワルド暗殺

逮捕から2日後の11月24日午前11時20分頃、ダラス警察の地下駐車場で、郡刑務所へ移送される車に乗る直前、ジャック・ルビーによって銃撃されました。

すぐに救急車でパークランド病院へ搬送されますが、警察は同日午後1時7分に死亡したと発表しました。

ジャック・ルビーは、貧しかった少年時代にアル・カポネの使い走りをして小遣いを稼いでいたマフィア。

ダラスでは、ナイトクラブ経営、違法ギャンブル、麻薬取引、キューバへの銃器密売などをしていました。

オズワルドが病院に運ばれた際には、異常なほど興奮してオズワルドの生死について周囲に尋ねたとのこと。

死んだと知らされると、やっと落ち着きを取り戻したそうです。

オズワルドとの面識については一切否定。

殺害の理由については「夫が暗殺され悲しんでいるジャクリーン夫人とその子供のため」と供述していました。

しかし、その後の調査で、オズワルトとは、マフィアやCIA、反カストロのキューバ人亡命者グループなどと深い関係にあったことが公になったため、その供述を信じられるものではありませんでした。

ウォーレン最高裁長官が、ダラス郡拘置所でルビーを尋問した際、「彼は自分の身の危険を感じており『オズワルドを殺害したとき、自分は誰かに操られていた』とほのめかした」と話しています。

その後、ルビーは、1964年3月14日、ダラス地方裁判所で「悪意を備えた殺人」で有罪となり死刑判決。

再審を待っている間、獄中のルビーは精神の安定を欠き「何者かにガン細胞を注射された」「ワシントンの刑務所に移送してくれたら本当のことをすべて話す」など不可解なことを話します。

1967年1月3日、ケネディ、オズワルドが治療を受けたのと同じパークランド病院で肺ガンによる肺塞栓症により亡くなりました。

ウォーレン報告の評価

ウォーレン委員会の結論骨子です。

  • ケネディ大統領暗殺犯はオズワルドただ一人である。
  • オズワルドはまた、ダラス市警のチピット巡査をも殺害した。
  • そのオズワルドはジャック・ルビーに単独で殺害された。
  • この暗殺事件に絡む陰謀は内外を問わず一切なかった。
  • 大統領を撃った全ての銃弾はテキサス教科書倉庫ビル6階の窓から発射された。
  • 大統領に向かって発射された銃弾は合計3発である。1発は大統領の背中から胸へ抜け、前方に座っていたコナリー知事の胸、手首、左の太ももを傷つけた。もう1発は大統領の頭部に命中してこれが致命傷となった。あとの1発は命中しなかった。

この報告書が出てから9年後の1973年1月、ケネディ暗殺時の副大統領で、暗殺後即日で大統領となったリンドン・B・ジョンソンが亡くなりました。

ジョンソンは、亡くなる前「自分はオズワルドが引き金を引いたことまでは承服できる。だが委員会が暗殺事件を徹底的に掘り下げたかどうかは確信がない。私の勘だが、オズワルドは失敗に終わったキューバ侵攻作戦への復讐を狙うキューバ人と関連があったのではないか」と語っています。

また、1975年4月25日の夕方のCBSイブニングニュースで、ウォルター・クロンカイトは、ジョンソンが「ケネディ暗殺がオズワルドの単独犯行だとは一度も考えたことがない」と1969年のインタビューで述べていたことを明らかにしました。

最初にCIAを疑ったジョン・F・ケネディの弟ロバート・ケネディ。

2013年1月には、息子のロバート・ケネディ・ジュニアがテレビでのインタビューで、父親がウォーレン委員会の答申を全く受け入れていなかったことを明らかにしています。

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疑惑

「暗殺事件前後に『オズワルド』を自称する者が複数目撃されたという証言」「狙撃時のオズワルドの所在について、教科書倉庫ビル2階の食堂で昼食を摂っていた姿を目撃した証言」などがあり、オズワルドは実行犯ではなく身代わりとされたのでは、と主張する論者が多数存在します。

また、「マフィアとの関係が指摘されるルビーがなぜ容易に警察署に入ることができたのか」「ルビーがオズワルドを暗殺した理由が不可解」「オズワルドとルビーの間には共通の知人が何人もいた」「2人が顔見知りであったという証言」などにより、暗殺の実行犯はオズワルドではない、あるいは単独犯ではないという説も根強くあります。

他にも、オズワルドの母親のマーゲリート・オズワルドは、マルセロの運転手兼ボディーガードを務めたことのあるサム・テルミネという男や他にも暗黒街の男と親しく付き合っていたといいます。

目撃証言者12人が変死または怪死していると主張もあるようです。

ですが、ウォーレン委員会の正告によると、1964年「様々な物的証拠を検証するとオズワルド単独犯で説明がつく」と結論されています。

真実は、2039年に解禁されるとされていました。

ですが、法律上、公開を唯一差し止めることができるトランプ大統領は、今年4月には、生存する人物に関すること以外の資料を全て公開するとしています。

気になるのが、すでに紛失している資料もあるということ。

となると、ますます疑惑が深まるがなかりです。

10月26日に公開された機密文書

10月26日に、新たに公開された機密文書では、「暗殺の25分前に、英国の地方紙ケンブリッジ・ニューズに匿名の電話があり、『大きなニュースがあるから、ロンドンの米国大使館に電話すべきだ』と告げて切れた」というものがありました。

これについて、誰が電話に応対したのか、何の目的の電話だったのかは分からないとのこと。

1960年のFBIメモには、『ロサンゼルスの有名探偵だったフレッド・オターシュ氏が『ハリウッドの高級コールガール』に近づき、当時上院議員だったケネディや歌手フランク・シナトラ、同サミー・デイビスJr.らが関わったとされる乱交パーティーについて情報を求めた」「コールガールは探偵に『不謹慎な行動について何も知らない』と答えた」。

1964年にFBIが作成したメモには、「当時のキューバ最高指導者フィデル・カストロ議長暗殺計画があったこと。キューバからの亡命者らが報酬15万ドル(当時約5400万円)で暗殺を持ちかけ、FBI側が「高すぎる」と拒否し、亡命者らは報酬額を10万ドル(同3600万円)に値下げしたが、結局、計画は頓挫した」。

他に、1965年、ある情報筋が、米連邦捜査局(FBI)に対し、「ソ連国家保安委員会(KGB)が『ジョンソン大統領に暗殺の責任がある』ことを示すデータを持っていると伝えた」。

民主党政権とニクソン政権で米中央情報局(CIA)長官を務めたリチャード・ヘルムズの発言を記した文書では「ジョンソンは『ケネディが暗殺されたのは、南ベトナムのゴ・ディン・ジェム大統領を殺害したからだ』と言っていた」というものがありました。

おわりに

2003年の世論調査では、70パーセントの人々がケネディ暗殺は単独犯ではなく複数犯による犯行であったと考えています。

陰謀説は、下記にようなものがあります。

  • キューバやソ連(当時)の関与を疑う声
  • ケネディの外交政策に反対していたCIA主犯説
  • マフィア主犯説
  • ベトナム戦争の軍事顧問団の縮小計画に対する政府主犯説
  • 汚職追求を恐れたジョンソン副大統領黒幕説

これら以外も、陰謀説は、ささやかれています。

今後出てくる資料でも、全ては明らかにはならないでしょう。

暗殺というのは、謎が多いものですね。

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