天安門の劉暁波氏が死去…私に敵はいないと民主化推進でノーベル平和賞

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13日、中国の民主活動家でノーベル平和賞を受賞した作家の劉暁波氏が亡くなりました。

末期の肝臓がんで入院していましたが、多臓器不全のため死去。

61歳でした。

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異常判明後の劉暁波氏

劉氏は、今年5月末の検査で異常が判明されていました。

厳しい弾圧にもかかわらず、非暴力の反政府活動を続け、中国の民主化運動の象徴となっていた。病状が深刻になるまで投獄していた習近平指導部に対する国際的な批判が高まるのは確実だ。
中国当局によると、劉氏は5月末の検査で異常が判明した後、病院に移された。死期が近づいてから刑務所外に出るのを認めたのは、「少しでも内外の批判を和らげるためだった」(日本政府高官)という見方が強い。
 米国やドイツなど欧州諸国は、一貫して劉氏の釈放を求めてきた。これに対し、中国政府は「内政干渉だ」と反発。劉氏が病院に移されたことが6月26日に判明した後も、中国側は「国外移送は危険」と主張した。劉氏が海外での治療を希望し、診察した米独両国の医師が今月9日に「適切な医療支援があれば安全に(海外に)移送できる」との見解を示したにもかかわらず、中国当局や病院が出国を認めることはなかった。

引用元 JIJI.COM

末期の劉氏への対応について、中国側の真意はわかりません。

しかし、劉氏の命のギリギリまで投獄していたのは事実です。

劉氏は中国の民主化に尽力した方なので、これにより、西側諸国の批判は高まるのは間違いないでしょう。

世界中に影響を与え続けた劉氏は、61歳で亡くなりました。

医療が進んでいる現代において、あまりに早い人生を終えてしまいました。

劉暁波氏の経歴

  • 1955年12月28日:吉林省長春市生誕
  • 1982年:吉林大学文学部卒業
  • 1984年:北京師範大学文学部修士課程卒業
  • 1984年~1986年:北京師範大学文学部で教鞭
  • 1988年:北京師範大学文芸学博士号取得
  • 1988年8月~11月::ノルウェーのオスロ大学の要請を受け、中国現代文学を教える
  • 1988年12月~1989年2月:米国ハワイ大学の要請を受け、中国哲学、中国現代政治と知識人のをテーマに研究と授業
  • 1989年3月~5月:客員研究者として米国コロンビア大学へ
  • 1989年4月27日~6月4日:民主化運動に参加
  • 1989年6月6日~1991年1月:「反革命罪」で投獄される。
  • 1989年9月:全ての公職を失う
  • 1991年1月~1995年:北京にて文筆活動、人権運動、民主運動に従事。
  • 1995年5月18日~1996年1月:再び入獄、釈放後民主化運動、文筆活動を継続
  • 1996年10月8日~1999年10月7日:“労働教養”(中国特有の監禁刑罰)に処せられる。釈放後、北京の自宅でフリーライターとして、大量の時事評論や学術論文を発表する
  • 2003年11月:独立中文筆会第二任会長に当選
  • 2005年11月2日:引き続き独立中文筆会会長に当選留任
  • 2008年12月10日:「08憲章」の起草者となるも発表直前に身柄を拘束される
  • 2009年6月23日:「国家政権転覆扇動罪」などの容疑で北京市公安局に正式に逮捕
  • 2009年12月:11日に起訴され、25日に北京の第1中級人民法院で「国家政権転覆扇動罪」により懲役11年の判決を言い渡される
  • 2010年2月11日:北京の高級人民法院が劉の控訴を棄却し、懲役11年および政治的権利はく奪2年の判決が確定
  • 2010年10月8日:民主化と人権の促進への貢献でノーベル平和賞を受賞

引用元 ウィキペディア

1989年、中国で民主化運動が始まったときに、劉氏は、コロンビア大学の客員研究員でした。

しかし、民主化運動が勃発するとすぐ、劉氏は帰国します。

そして、民主化運動に参加します。

このときに、天安門事件が起きます。

劉氏は、天安門事件の中心的人物でした。

ここから、劉氏は、生涯、中国民主化に身を捧げることになります。

「08憲章」を起草

2008年12月9日、劉氏ら同士303名が連名で「中国の政治・社会体制について」「中国共産党の一党独裁の終結」「三権分立」「民主化推進」「人権状況の改善」などを求めた宣言文をインターネットで発表しました。

この内容は、ブログに転載などされ、世界中に広がります。

しかし、中国国内では、政府により閲覧できなくなっています。

劉氏は、「08憲章」の発表により、拘束されます。

そして、2009年12月25日、劉氏は「国家政権転覆扇動罪」により懲役11年の判決を言い渡されます。

ノーベル平和賞を受賞

2010年10月8日、劉氏のノーベル平和賞受賞が発表されます。

これは、中国在住の中国人として初めての出来事でした。

劉氏の受賞理由は「中国における基本的人権のために長年、非暴力的な闘いをしてきた」こと。

劉氏は、いかなる弾圧にも、非暴力で闘ったのですね。

当然、中国はこの受賞に抗議します。

中国外交部は、「ノーベル平和賞を冒涜するもので、我が国とノルウェーの関係に損害をもたらす」と批判。

人民日報系の環球時報は「ノーベル平和賞は西側の利益の政治的な道具になった。平和賞を利用して中国社会を裂こうとしている」と批判。

中国国内では、劉氏のノーベル平和賞授与決定を報道するCNNやNHKワールドのニュース番組はもちろん、インターネットも遮断されることになります。

そして、ノーベル平和賞の授賞式は同年12月10日に行われます。

しかし、「08憲章」によって服役中の劉氏は、授賞式に行くことはできませんでした。

「私に敵はいない」

2009年12月23日、劉氏は、「私に敵はいない」という陳述を発表します。

これは、ノーベル平和賞の授賞式で代読されました。

抜粋したものがこれです。

50を過ぎた私の人生で、(天安門事件の起きた)1989年6月は大きな転機だった。

私の自由を奪った政権にまだ言いたい。20年前にハンスト宣言で表明した「私に敵はいない、憎しみの気持ちもない」という信念に変わりはないと。私を監視し、逮捕し、尋問してきた警察、起訴した検察官、判決を下した裁判官はすべて私の敵ではない。監視や逮捕、起訴、判決は受け入れられないが、当局を代表して私を起訴した検察官の張栄革と潘雪晴も含め、あなた達の職業と人格を私は尊重する。12月3日にあった尋問で、私は2人の尊重と誠意を感じることができた。

私は中国の政治の進歩は止められないと堅く信じているし、将来の自由な中国の誕生にも楽観的な期待が満ちあふれている。自由へと向かう人間の欲求はどんな力でも止めらないのだから、中国は人権を至上とする法治国家になるだろう。こうした進歩が本件の審理にも表れ、合議制法廷の公正な裁決、歴史の検証に耐えうる裁決が下ると期待している。

ここでは異なる価値や思想、信仰、政治的見解が互いに競い合い、平和的に共存する。ここでは多数の意見と少数の意見が平等に保障され、特に権力者と異なる政治的見解が十分に尊重され、保護される。ここではあらゆる政治的見解が太陽の下で民衆に選ばれ、すべての国民が何も恐れずに政治的見解を発表し、異なる見解によって政治的な迫害を受けることがない。

私は望む。私が中国で綿々と続いてきた言論弾圧の最後の被害者になることを。今後、言論で罪に問われる人が二度と現れないことを。表現の自由は人権の基礎で、人間性の根源で、真理の母だ。言論の自由を封殺するのは、人権を踏みにじり、人間性を窒息させ、真理を抑圧することだ。

憲法が与える言論の自由を実践するためには、公民としての社会的責任を果たさなければいけない。私がしてきたあらゆる事に罪はない。たとえ罪に問われても、恨みはない。

皆さんに感謝する!

2009年12月23日 劉暁波

引用元 「私に敵はいない 最後の陳述」

劉氏の思いがつまった陳述です。

この思いは、いつか叶うことでしょう。

台湾の蔡英文総統の哀悼の言葉

劉氏が亡くなった知らせを受け、台湾の蔡英文総統はフェイスブックでこのように語っています。

「今晩、中国の人権に関心を寄せる全世界の人は、われわれと同様、劉暁波さんの病死にこの上ない悲しみを感じています」

引用元 フォーカス台湾

また、中国民主化について、このように語っています。

蔡総統は劉氏が2010年の判決確定前に書き上げた文章「私に敵はいない」の中で、中国大陸が人権至上主義の法治国家に変わることへの期待を示していたことに触れ、「これが劉氏の中国に対する夢」だと言及。中国大陸に民主化への変革を訴え、「中国大陸が中国の夢を叶える過程において、台湾は必要とされる支援を提供します」とつづった。

引用元 フォーカス台湾

劉氏が亡くなったことにより、再び風が吹くのでしょうか。

おわりに

残念ながら、劉氏は、夢半ばで亡くなってしまいました。

西側諸国の中国に対する批判は、大きくなりそうです。

劉氏は、亡くなったあとも、全世界に影響を与え続けていくでしょう。

改めてご冥福をお祈り申し上げます。

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