宮崎勤の被害者遺族保証と家族の現在(その後)!実家住所(勤務先)は?

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1988年から89年、日本中を震撼させた宮崎勤元死刑囚による東京・埼玉連続幼児誘拐殺人事件。

宮崎元死刑囚の生い立ち、逮捕後の一族の末路はどうだったのか、気になります。

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宮崎勤事件とは?

宮崎元死刑囚の犯した事件や裁判については、こちらをご覧ください。

宮崎勤事件の詳細や場所は?余罪や未遂はなかったのか?

宮崎勤の取り調べや裁判内容は?精神鑑定結果と人肉、ネズミ人間以外の問題発言は?

宮崎勤のプロフィール

  • 生年月日:1962年8月21日
  • 出身地:東京都西多摩郡五日市町(現あきる野市)
  • 小学校:五日市町立五日市小学校
  • 中学校:五日市町立五日市中学校
  • 高校:明治大学付属中野高等学校
  • 短期大学:東京工芸大学短期大学部画像技術科
  • 死没:
    2008年6月17日(45歳没)
    東京都葛飾区(東京拘置所)
  • 死因:絞首刑
  • 判決:死刑

地元のローカル新聞会社・秋川新聞社を経営する、裕福な一家の長男として出生。

両親は共働きで忙しかったため、産まれてまもなく、30歳ぐらいの知的障害を持つ子守りの男性を住み込みで雇い入れています。

宮崎元死刑囚は、幼いころ、この男性と祖父が世話をしていました。

宮崎家は曽祖父は村会議員、祖父は町会議員を務めており、地元の名士。

家族は祖父、祖母、両親、妹2人の7人家族でした。

祖父は引っ込み思案な宮崎元死刑囚を連れて歩き、可愛がっていたそうです。

そのため、宮崎元死刑囚は、異常なほど、祖父を慕っていました。

宮崎元死刑囚は、幼い頃から手首を回せず手のひらを上に向けられない「両側先天性橈尺骨癒合症」(りょうがわせんてんせいとうしゃくこつゆごうしょう)。

当時の日本には150ほどしか症例のない珍しい身体障害。

医者からは、「手術しても100人に1人くらいしか成功しない。日常生活に支障がないなら、手術するにしても、もっと大きくなってからの方がいいだろう」と言われていました。

両親は「勤は幼い時から掌が不自由なのを気にしており、うまくいかないことを、掌のせいと考えてきたとされる。4歳の時に手術も考えたが、もし、手術して身障者のレッテルを張られたら、勤の将来に悪い結果となると判断し、そのままにした」と語っています。

そのため、幼稚園ではお遊戯や頂戴のポーズもできず、周囲からからかわれても幼稚園の先生は何も対応しなかったため「非常に辛かった」と供述しています。

また、両親も、この障害のため、宮崎元死刑囚を他人に会わせないようにしていたようです。

そして、宮崎元死刑囚は、障害を幼女にからかわれたと思い込み、殺害にあたったような供述をしています。

高校は、手の障害を気にし、自宅から片道2時間もかかる男子校であった明治大学付属中野高等学校へ進学。

これを、両親は、「英語教師になるためにわざわざ遠い高校へ進学した」と勘違いしていました。

宮崎元死刑囚は、高校では、暗く目立たない少年だったようです。

また、高校に入ってからの成績は下降の一途。

それでも、本人は明治大学への推薦入学を希望していたとのこと。

ですが、クラスでも下から数えたほうが早い成績にまで落ちていたことから、その希望は果たす以前だったようです。

高校卒業後、、東京工芸大学短期大学部画像技術科に進学。

俳優の川崎麻世さんは短大の同級生。

しかし、川崎さんは、宮﨑元死刑囚の逮捕時のインタビューで「僕は記憶力が良い方だし、クラスは全部で80人ほどだったから、忘れるはずはないんだが、そんな奴いたかって感じなんだ。同級生にも聞いてみたけど、誰も覚えていなかった」と話しています。

宮崎元死刑囚は、それほど影が薄い存在だったみたいです。

1983年4月の短大卒業後は叔父の紹介で、小平市の印刷会社に就職。

印刷機オペレーターとして勤務したのですが、勤務態度は極めて悪く、評判も非常に悪かったとのこと。

1986年3月、上司から神奈川県への転勤を勧められますが、宮崎元死刑囚は拒否した為自己都合退職。

実質的には解雇でした。

家業を手伝うよう両親が何度か声をかけますが、自室にこもる生活が数ヶ月続きます。

9月ごろから家業を手伝い始めますが、広告原稿を受け取りに行く程度の簡単な手伝いでした。

1988年5月16日、祖父が死去。

宮崎元死刑囚は、8月22日に第1の犯行を起こします。

また、信じられないことに、「今田勇子」という名の犯行声明を出したあと、1989年3月、晴海のコミックマーケットに漫画作品を出品しています。

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一族の現在は?

元東京新聞記者・坂本丁次さんは、兄と宮崎元死刑囚の父親が小学校の同級生という間柄。

また、坂本さんは大学3、4年のころ、週に1日夜だけ、宮崎元死刑囚の父親の新聞社にアルバイトをしていました。

そして、坂本さんが東京新聞で記者をしていたころ、宮崎元死刑囚が逮捕されます。

坂本さんは、父親のところに行き、「どうしたんだ」と聞きます。

父親は、とぼけているわけではないのですが、半信半疑の様子。

話はまだ然程大きなっていなかったので、とりあえず、坂本さんは宮崎家をあとにします。

しかし、話は、どんどん大きくなります。

1時間後、各新聞社、テレビ局が続々と宮崎家にやってきます。

そうこうしているうちに、警察がやってきて、宮崎家にロープを張り、マスコミがシャットアウト。

すると、逮捕から1週間が経ち、坂本さんのところに、宮崎元死刑囚の弁護士から連絡が入ります。

「父親があなたに会って、話したいことがある」

父親に会いにいった坂本さん。

すると、父親は坂本さんに抱きついてきます。

「こんなことになってしまって」
「こんなに苦しむんなら、死んだ方がどんなにいいんだろう」

声を振り絞って語ってきたそうです。

そして、「どんな悪いことをした子でもやはり自分の子なんだ。だから、本当は自分の子は可愛い」と話したとのこと。

やっぱり、親なんですね。

しかし、当然悲劇は訪れます。

宮崎元死刑囚の妹2人。

上の妹は宮崎元容疑者と3歳違いで、当時24歳。

近く職場の人と結婚することになっていました。

ですが、この事件のため、自ら婚約破棄、仕事も自主退職しました。

宮崎元死刑囚と8歳違いで、当時19歳の下の妹は、看護学校に通っていましたが、自主退学。

さらに、3男4女の7人兄弟の長男だった父親の、弟2人も退職。

次男の持っていた会社は、奥さんに名義変更。

3男は、娘が宮崎姓を名乗ることを考え、離婚し奥さんに子供を引き取らせます。

また、宮崎元死刑囚の母親の兄に2人の子供がいました。

1人は警察官、もう1人は高校教師。

2人とも勤めを辞めます。

一族は、大変な被害を受けることになってしまいました。


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被害者遺族への保証

父親は、土地などの財産を全て処分します。

土地は、820万円で売れたそうです。

被害者は4人ですから、1人200万円を遺族へ送金し謝罪。

そして、父親は、これで自分のできる謝罪は終わったということで、高さが100メートル以上ある神代橋から投身自殺をしてしまいました。

父親が亡くなったのは、宮崎元死刑囚の判決前のことです。

また、宮崎元死刑囚の実家は、現在、更地となっており、駐車場として使用されているようです。

おわりに

宮崎元死刑囚は、取り調べで、父親は嫌いで、母親の方が好きといった話をしていたようです。

父親は亡くなり、母親は死刑執行後の宮崎元死刑囚と対面したあとは不明。

また、妹2人の消息も不明です。

今、家族は、どのように思っているのでしょうか。

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