宮崎勤事件内容(詳細)と現場(どこ)は?余罪や未遂は?連続幼女誘拐殺人事件

  • このエントリーをはてなブックマークに追加

宮崎勤元死刑囚による、1988年から1989年にかけて東京都北西部および埼玉県南西部で発生した、幼女を対象とした一連の事件。

一体どんな事件だったのか、余罪や他に未遂はなかったのか気になります。

スポンサーリンク

どのような事件か?

宮崎元死刑囚は、東京都西多摩郡五日市町(現あきる野市)にある地元の新聞会社を経営する、裕福な一家の長男として生まれます。

幼い頃から手首を回せず手のひらを上に向けられない「両側先天性橈尺骨癒合症」という、当時の日本には150ほどしか症例のない珍しい身体障害がありました。

この障害は、宮崎元死刑囚には、大きなコンプレックスでした。

また、祖父は、宮崎元死刑囚の幼い頃の世話をし、可愛がってくれた人。

その祖父が1988年5月16日に他界し、宮崎元死刑囚は犯行を起こします。

最初の事件は、宮崎元死刑囚が26歳になった翌日の、1988年8月22日、埼玉県入間市、4歳幼稚園児に声をかけ、車で連れ去ります。

「涼しいところに行かないかい?」

宮崎元死刑囚は、死後硬直で固くなった遺体にわいせつ行為を行う様子をビデオ撮影しています。

動機について簡易鑑定の問診記録では、鑑定人に「どうして写真だけでは済まなくなったか」を聞かれた際は、第一次鑑定では「よくわかんない」、最後の被告人質問では「急に子供の頃が懐かしくなった」と、証言が曖昧でした。

この事件では、公開捜査にまでなりましたが、全く手がかりが掴めませんでした。

2人目は、1988年10月3日、埼玉県飯能市の小学1年生に声をかけます。

「道がわからなくなったので、教えてくれるかい?」

このときは、すぐにわいせつ行為をしています。

宮崎元死刑囚の証言では、その際、まだわずかに息があったようで足がピクピク動いていたとのこと。

動機について供述調書では「何ともいえぬスリルがあった」、第一次鑑定では「よく覚えていない」「一番印象が無い」と述べています。

スポンサーリンク


3人目は、1988年12月9日、埼玉県川越市の4歳の幼稚園児。

「あったかいところに寄っていかない?」

幼稚園児は、誘拐されたとき、失禁してしまったようです。

宮崎元死刑囚は焦ったのかもしれません。

幼稚園児を、殺害し、埼玉県の山林に投げ捨ててしまいます。

12月15日、全裸で手足を縛られた状態の遺体が発見。

テレビで父親が「死んでいても見つかってよかった」と発言するのを見た宮崎元死刑囚は、他の被害者の遺体も送ることを計画します。

しかし、宮崎元死刑囚は、2人目の小学1年生の遺体を発見できませんでした。

このとき、宮崎元死刑囚は、山道に脱輪してたまたま通った車に助けを求め、犯人の車は「白のハッチバック」という目撃情報が浮上しました。

しかし、これは、目撃者の見間違い。

宮崎元死刑囚の車は「紺のラングレー」だったので、捜査が混乱してしまいました。

宮崎元死刑囚は、1989年2月6日、1人目に誘拐した幼稚園児の遺骨を入れた、ダンボールを幼児の自宅前に置きます。

その中には、「幼稚園児の名前 遺骨 焼 証明 鑑定」と書かれた紙も同封されていました。

幼稚園児は、自宅の裏の焼却炉で焼かれたとされています。

また、2月10日「所沢市 今田勇子」という名の犯行声明を、朝日新聞東京本社に郵送。

2月11日、同じ内容の犯行声明を、幼稚園児宅に郵送。

3月11日、「今田勇子」名で、告白文を朝日新聞東京本社と2人目の小学1年生宅に送付。

これは、自身が「五日市町に住んでいる」「男性である」ことを、撹乱するためのものでした。

ですが、過去のデータを利用したプロファイリングにより、男性が書いたものということを、警察はわかっていたようです。

ちなみに、戦後日本犯罪史上にて初めてプロファイリングの導入されたのは、この事件のようです。

また、犯行声明、告白文とも極端に角張った利き手と反対の手で書かれたとも思える筆跡が特徴でした。

そして、4人目、1989年6月6日、東京・江東区の「有明テニスの森公園」での5歳の保育園児。

「写真を撮ってあげるよ」

保育園児の両手を焼いて食べたと、宮崎元死刑囚は罪状認否で述べますが、検察は自己の異常性を強調するため虚偽の事実を述べたものだと論告で主張。

判決では検察側の主張を認め、宮崎の主張する食人行為は虚偽の疑いが濃厚だとされました。

保育園児は、5日後、埼玉県飯能市内にある霊園内で頭部、両手足が切断された遺体で発見されます。

宮崎元死刑囚逮捕

宮崎元死刑囚は、1989年7月23日、東京・八王子市で幼い姉妹を狙った猥褻事件を起こします。

妹の女児(6歳)の裸の写真を撮ろうとし、姉の知らせを受けた父親に取り押さえられ、ついに逮捕されました。

その後の、供述、逮捕、遺体発見の流れです。

  • 1989年8月9日:4人目の殺害を自供。
  • 1989年8月10日:4人目の頭部発見。犯人のマスコミ報道が始まる。
  • 1989年8月11日:4人目の誘拐・殺人・死体遺棄の容疑で再逮捕。
  • 1989年8月13日:1人目、3人目の誘拐殺人を自供。
  • 1989年9月2日:検察が起訴に踏み切る。
  • 1989年9月5日:2人目の殺害を自供。
  • 1989年9月6日:五日市町で2人目の遺骨発見。
  • 1989年9月13日:1人目の遺骨発見。

幼女を殺すたび、自宅に藁人形を置いて部屋を暗くし、頭に鉢巻きをして蝋燭を数本付け、黒っぽい服を身に付け手を上げ下げし、祖父復活の儀式を執り行ったと宮崎元死刑囚は裁判で主張しています。

スポンサーリンク

動機は?

動機については、裁判でも特定できていません。

ただ、第1次精神鑑定鑑定医・保崎秀夫氏は「成人をあきらめて幼女を代替物としたようで、小児性愛や死体性愛などの傾向は見られません」と法廷証言しています。

簡易精神鑑定でも「幼児を対象としているが、本質的な性倒錯は認められず」「幼児を対象としたことは代替である」としています。

また、宮崎元死刑囚の性の対象は、成人の女性より幼女を、幼女よりその死体を、死体よりそれを解体したものを、さらにそれをビデオに撮ったものと移っていったという見方もあります。

殺人の動機については、自身の手の障害を被害者に指摘されたことや、祖父の死も影響しているようです。

余罪や未遂は?

この事件後、もしかして、宮崎元死刑囚に会ったかもしれないという情報がたくさん流れています。

「キャンプ場で不審者に声をかけられた」「おじちゃん一人でおしっこできないから、手伝ってくれない?」といったものです。

もしかして、いたずらなどは、表に出ていないだけで、他にもあるかもしれません。

また、1988年に利根川河川敷で白骨化した遺体が発見された群馬小2女児殺害事件について、宮崎元死刑囚の犯罪ではないかといわれています。

なぜならば、群馬小2女児殺害事件は、遺体の発見現場が河川敷だったこと、遺体の両腕の肘から先と両脚の膝がなかったこと、など共通点があったため。

しかし、殺害時期が、宮崎元死刑囚の第1の殺害事件から1年近く前であること、事件現場がやや離れていたこと、宮崎と結びつける証拠がみつからなかったこともあり、立件されませんでした。

この事件は、2002年9月15日に公訴時効が成立して未解決事件となりました。

オタクの象徴のようになった宮崎元死刑囚

宮崎元死刑囚の自宅の部屋には、天井まで積み上げられたアニメやSFの6000本とも言われるビデオテープや漫画がありました。

メディアは、これを、いわゆるおたく・ロリコン・ホラーマニアとして報道。

しかし、実際は、ロリコンのものは、ほとんど見つかってはいないようです。

殺害後の幼女をビデオカメラで撮影し、膨大なコレクションのビデオテープの中に隠し持っていたことから、現実と空想・妄想と犯罪行為の境界が曖昧で、明確な規範意識の欠落が犯罪に及んだとされ、これがおたくの特徴とされてしまいました。

おわりに

2008年6月17日、45歳の宮崎元死刑囚は、東京拘置所で死刑が執行されました。

宮崎元死刑囚は、冷静に執行を受け入れたとのこと。

母親は遺体との対面後に、処置については拘置所に任せたそうです。

また、宮崎元死刑囚は、最後まで謝罪の言葉はありませんでした。

この記事を読まれた方は、こちらも読まれています。

宮崎勤の取り調べや裁判内容は?精神鑑定結果と人肉、ネズミ人間以外の問題発言は?

宮崎勤の被害者遺族保証と家族の現在は?実家住所や生い立ちは?

スポンサーリンク

SNSでもご購読できます。

コメントを残す

*