
名将、上田利治(うえだ・としはる)元監督が亡くなりました。
80歳とのこと。
監督通算20年で1322勝は通算勝利数歴代7位の名将は、娘と奥さんが統一教会に入信し、監督休養という経験をしていました。
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名監督、名選手にあらず
上田利治さんは、海南高校では捕手として、1954年夏の甲子園県予選では準々決勝に進出。
野球を辞めて弁護士になるつもりで入った関西大学では、同級生の豪腕村山実さん(享年61)の球を取れるキャッチャーがいないということで、野球部に入部。
頭脳的なキャッチャーとして、1959年に広島カープに入団しましたが、右肩を壊し1961年に引退。
上田利治さんは、決して、成功した選手とは言えませんでした。
元々、上田利治さんは、広島カープの親会社である『東洋工業』の出向社員が条件で、プロ野球選手になっています。
ですから、上田利治さんは、引退後、東洋工業復帰を希望していました。
しかし、上田利治さんの才能を買っていた広島カープ社長は、広島カープの2軍コーチを要請。
当時25歳の上田利治さんは、日本プロ野球史上最年少のコーチに就任します。
そして、広島カープの1軍コーチ、阪急ブレーブス(現オリックスブレーブス)のヘッドコーチを経て、1974年、37歳の若さで阪急ブレーブスの監督に就任。
20年の監督生活では、リーグ優勝5度、日本一3度。
「ええで、ええで」と選手を褒める『ええで節』は、上田利治さんの代名詞。
上田利治さんは、最下位を一度もしなかった歴史に残る名監督でした。
監督休養
上田利治さんは、阪急ブレーブスで2回、日本ハムファイターズで1回監督をしています。
日本ハムファイターズでの監督は、1995年~1999年。
その監督在籍中、シーズン途中の1996年9月9日からそのシーズンの終わりまで、監督を休養しています。
理由は、「家庭の事情」。
マスコミは、調べあげます。
そして、報道されたのが、娘と奥さんの統一教会への入信でした。
しかし、上田利治さんは、このことについて、明言していません。
その後のこともわかっていません。
ですが、1996年オフに、監督復帰をしています。
憶測として、何らかの解決をしたのではないか、と世間では言われました。
おわりに
最近、野球界の訃報が続きます。
たいへん寂しいことです。
上田利治監督、ご冥福をお祈り申し上げます。